普通と普通じゃないの苦しさ

最近、「普通と普通じゃないもの」という話題が多い。
月に2~3回はその話をするし、3日に1度は自問するようになった。

近年の価値観の転換は、この「普通から普通じゃないものへ」の転換だと思う。
乱暴な表現だが、旧来の普通と、新しい普通に転換しているから、旧来の普通を「普通」と感じ、新しい普通を「普通じゃない」と感じているのかと思っている。

先日の不登校の生徒の保護者会(名前は「先輩にこの先どうなるのか聞く会」)でもこの話題となった。

ある保護者が言われたのは、
「普通を保つために子どもが苦しい思いをし、私も必死になってきた。限界が来てしまい、子どもの不登校をきっかけに、その普通をやめた。そうすると、すごく楽しい日常になった」というものだった。

私は、その話を聞いて、素晴らしい話だと思いうなづいていた。
参加者の保護者の方々のリアクションは分かれていた。
不登校の回復状況がかなり早いご家庭のお母さんは頷き、「わかるわかる」という感じだったが、
不登校の回復が止まっているご家庭のお母さんは小さく頷きながら「へぇ~」という感じだった。

そのリアクションの差を見て、これはかなり大きな差なんだろうと思った。


「普通」をやめて、今感じられる範囲や、目の前で起こっている事だけを見て考えると、その行動が正しい
という結論になった。

本当にそうだと思う。
我思う、ゆえに我あり。だ。
自分の人生を、「これ、大事らしいよ」という発想では生きられない。
これが普通なのかどうかは、イマイチよくわからないが、

少なくとも、県立進学校に行って不登校になった時の私は普通で、
友達作るのをやめるという発想の転換で学校復帰した私は普通ではなかったと思う。